青刺・TATOOの歴史

入れ墨は比較的簡単な技術であり、野外で植物のが刺さったり怪我をしたりした際に、入れ墨と同様の着色が自然に起こることがあるため、体毛の少ない現生人類の誕生以降、比較的早期に発生し普遍的に継承されて来た身体装飾技術と推測されている。

古代人の皮膚から入れ墨が確認された例としては、アルプスの氷河から発見された5300年前のアイスマンが有名であり、その体には入れ墨のような文様が見つかっている[1]

また、1993年に発掘された2,500年前のアルタイ王女のミイラは、腕の皮膚に施された入れ墨がほぼ完全な形で残されたまま発掘されている。

日本の縄文時代に作成された土偶の表面に見られる文様[2][3]は、世界的に見ても古い時代の入れ墨を表現したものと考えられており、縄文人と文化的関係が深いとされる蝦夷アイヌ民族の間に入れ墨文化が存在(後述)したため、これも傍証とされる。

続く弥生時代にあたる3世紀の倭人(日本列島の住民)について記した『魏志倭人伝』中には、「男子皆黥面文身」との記述があり、黥面とは顔に入れ墨を施すことであり、文身とは身体に入れ墨を施すことであるため、これが現在確認されている日本の入れ墨に最古の記録である。

また『魏志倭人伝』と後の『後漢書東夷伝』には、

  • 「男子皆黥面文身以其文左右大小別尊之差」(魏志倭人伝)
  • 「諸国文身各異或左或右或大或小尊卑有差」(後漢書東夷伝)

と、共通した内容の入れ墨に関する記述が存在し、入れ墨の位置や大小によって社会的身分の差を表示していたことや、当時の倭人諸国の間で各々異なった図案の入れ墨が用いられていたことが述べられている。魏志倭人伝では、これら倭人の入れ墨に対して、中国大陸の揚子江沿岸地域にあった呉越地方の住民習俗との近似性を見出し、『断髪文身以避蛟龍之害』と、他の生物を威嚇する効果を期待した性質のものと記している。

目的 [編集]

個体識別 [編集]

入れ墨は容易に消えない特性を持ち、古代から現代に至るまで身分・所属などを示す個体識別の手段として古くから用いられて来た。

アウシュヴィッツ強制収容所で入れ墨されていた収容者番号

有名な例ではナチ親衛隊員が、戦闘中に負傷した際に優先的に輸血を受けられるよう左の腋下に血液型を入れ墨(SS blood group tattoo)していたほか、アウシュビッツなどの強制収容所に収容された人々は腕に収容者番号を入れ墨されていた。

人間以外の家畜やペットに対しても個体認識のために入れ墨や焼印が行われて来た歴史があり、かつての欧米では囚人の管理用に広く用いられたほか、近年でもユーゴ内戦時の各収容所において入れ墨による識別が行われていたことが知られている。

また、こうした強制的なケースばかりではなく、出漁中に事故に遭う可能性のある漁師が、身元判定のために入れ墨するケース(類似に木場川並が好んで入れていた「深川彫」など)や、首を取られてしまえば身元不明の死体として野晒しになるおそれのあった日本の戦国時代の雑兵が、自らの氏名などを指に入れ墨したケースなども知られている。

刑罰 [編集]

罪を犯した者に対して顔や腕などに入れ墨を施す行為は、古代から中国に存在した五刑[4]のひとつである(ぼく)・(げい)と呼ばれた刑罰にまで遡るとされる。

墨刑は額に文字を刻んで墨をすり込むもので、五刑の中では最も軽いものだった。前漢の将軍・英布(黥布)は若い頃に顔に罰として入れ墨を施されたことから逆に自ら黥を名乗ったと伝えられている。

日本書紀』中にも、履中天皇元年四月に、住吉仲皇子の反乱に加担した阿曇野連浜子に『即日黥』(その日に罰として黥面をさせた)との記述[5]がある。この記述は、海人の安曇部の入れ墨の風習を、中国の刑罰と結びつけて説いた起源説話とされている。阿曇野連は漁民でもある海部(あまべ)を統括する氏族であり、河内飼部は馬の飼育にかかわる河内馬飼部(うまかいべ)のことであり、また鳥の飼育をするのが鳥飼部である。これらは、生き物を飼う職能集団であるという共通性がみられる。飼育している生き物からの危害を避け、威嚇する意味も含めて、こうした呪術的意味を含み黥面をしていたと推側する研究者もいる。

また『日本書紀』雄略天皇10年10月には宮廷で飼われていた鳥が犬にかみ殺されたので、犬の飼い主に黥面して鳥飼部(とりかいべ)としたとの記述[6]がある。

江戸時代には左腕の上腕部を一周する1本ないし2本の線(単色)の入れ墨を施す刑罰が科せられた。施される入れ墨の模様は地域によって異なり、額に入れ墨をして、段階的に「一」「ナ」「大」「犬」という字を入れ、五度目は死罪になるという地方もあった。

サブカルチャー [編集]

オカルト的な図案「サクヤン」を性的装飾に用いた例

米国における入れ墨は、1960年代末に世界的に流行したヒッピー文化大麻LSDなどの嗜好やカルト宗教への帰依などを特徴とする)に取り入れられて成長したため、その図案や表示するメッセージなどにおいて両者は不可分の関係にあり、ドラッグ・カルチャーとの関連からヒッピー達が好んだヒンドゥー教チベット仏教に由来する梵字[7]オカルト的な図案が多く好まれていた。

近年の日本では、ヒッピー文化の影響を受けた両親を持つ団塊ジュニア世代以降の若年層に第2世代ヒッピーが、ファッションとしての意味合いで入れ墨を施すことが流行している。 こうした「入れ墨のファッション化」と日本国内のサブカルチャーの影響により、アニメのキャラクターやアイドルなどを入れ墨する事例も現れている。入れ墨といえば前述の反社会性ばかりが取沙汰された時代があったが、歌手の安室奈美恵が自らの亡き母親や息子の名前を入れ墨にしている事例からも解るように、近年は「愛する対象との同一化」や「憧れの対象との同一化」を図るための自己表現の為の装飾道具に変化しつつある。

こうした大衆社会の風潮に対して、大手企業を中心としたマスメディアでは「入れ墨」を従来の入れ墨と同様に反社会的なサインとして関連付けて報道した例 [7] が見られる。

性的装飾 [編集]

性的装飾としての入れ墨

入れ墨緊縛の例

主に性的サービス業に従事する女性が、男性の性的興奮を高める性的装飾として入れ墨を施す文化が各国に存在しており、女性器の周辺を装飾している場合も多い。

性的パートナーに対する服従や、仮想的な所有関係を示すために入れ墨を入れる事例も存在する。日本においては、暴力団関係者の性的パートナーとなった女性が、他の男性に対して一般の女性とは異なる存在であることを明示するために入れ墨を入れる。

日本においては、日本画家の小妻要(小妻容子)の描く“刺青美人画”や“刺青緊縛画”のように、入れ墨の性的側面や嗜虐性を強調した独自の絵画ジャンルも存在する。

東南アジアの一部の国においては、適齢期に婚期を逃した独身女性が眉部に太幅の眉毛の形状(ちょうど日本のバブル期に流行した眉毛の形である)に入れ墨を施すことで、特定の男性に限定されずに幅広く恋愛を行う意思(=売春への誘い)を示すサインとする習俗がある。

結社と入れ墨 [編集]

日本の暴力団や中華系のなど、反社会的な組織の構成員の多くが入れ墨を入れている。欧米においても、ロシアのマフィアや米国の白人至上主義団体が入れ墨を構成員の象徴として用いている。

日本の暴力団関係者が入れ墨をする理由としては、社会からの離脱と帰属組織への忠誠を表す、痛みに耐えて消えない刻印を背負うことで覚悟を示す、また「彫り物をしている」と流布することで周囲を威圧する、等が挙げられる。その図案は日本の伝統的な題材を描いたいわゆる「和彫り」が主流である[8]

特定の犯罪組織への帰属を示す入れ墨の存在により当該犯罪組織からの離脱が困難になる場合があるため、米国においては自発的な犯罪組織脱退者に対して入れ墨除去手術の費用を公的に負担する場合がある。

入れ墨の技術 [編集]

入れ墨の用語 [編集]

手彫り(テボリ)
柄の先で針を束ね、手を動かして肌に墨を入れる。
羽彫り(ハネボリ)
手彫りの技術。針を皮膚に刺した後、針先を跳ね上げることで、穿孔が広がり色素が多く入る。
突き彫り(ツキボリ)
手彫りの技術。
隠し彫り(カクシボリ)
腋下・内股など他人には見られにくい場所に、花びらなどで隠れた名前や言葉、淫靡な絵を彫る。
毛彫り(ケボリ)
人物や動物の毛の部分を彫ること。通常よりも細い針で彫ることが多い
筋彫り(スジボリ)
下書きとしてボカシの前に全体の輪郭を彫る。
ボカシ(あけぼの)
墨の濃淡や各色を用いて、全体を彫っていく。
ツブシ
塗りつぶすこと
シャッキ
手彫りの音

マシーン彫りの様子

機械彫り(キカイ・マシーンボリ)
磁石の磁力または、モーターの回転運動を用い、機械の上下運動により肌に針を刺す。束ねられた針には、浸透圧により墨が蓄えられる構造。
ライナー・マシーン
ライン(筋彫り)を行うための「ライナー」と呼ばれる入れ墨器具。
シェーダーマシーン
シェーディングを行うための「シェーダー」と呼ばれる入れ墨器具。シェーディングとは、ツブシやボカシ、カラー等の施術を指す意味の用語。
半端彫り(ハンパボリ)
彫りの痛みに耐えられない、費用が続かないなどの理由により、入れ墨が途中で終わっていること。
白粉彫り(オシロイボリ)
血行が盛んになると浮き出ると言われている彫り物のこと。創作上のものであり、現実には不可能である。蛍光塗料を用いて、ブラックライトに浮かび上がる入れ墨は存在するが、通常の状態でも絵は見える。

尚、器具を使ったから「洋彫り」、手で彫ったから「和彫り」とは一概に分類できず、絵の画風や全体の様子で判断する。和風の絵でも筋は器具で、ぼかしは手彫りで行うなど、手法は彫師により千差万別である。

芸術性 [編集]

入れ墨のファッション化がいち早く進行した[要出典]日本国外[どこ?]からは観光客が日本の伝統的な入れ墨彫り師の元を訪れるようになっており[要出典]、将来的には貴重な江戸の伝統文化として観光客誘致の材料にもなりうる[独自研究?]

欧米では漢字を入れる入れ墨が流行している[要出典]が、漢字を母国語として使用する人々からみると、その意味などが奇妙に見えてしまうことがある[独自研究?]。同様のことは日本の梵字ブームについても当てはまり、彫師が梵字の意味を知らないまま依頼者の信用へ重大な影響を与えかねない図案を入れてしまった例[7]もある。

美容用途 [編集]

ヘナを用いて手に文様を描く印僑女性: シンガポール

女性の眉や唇などに針の深度を浅くしたアートメイク・タトゥー(数年で薄くなるが完全に消えはしない)を施すほか、南アジアやアフリカの女性が施すヘナ(植物性の染料)を用いて手に模様を描く(染料なので消える)ことが行われている。

TATsと呼ばれるエアブラシを用いて皮膚表面に色素を定着させ、針を使った入れ墨に近い描画を可能とした技法も存在する。この手法では一度描いた文様を油性溶剤を用いて消し去り、新たに描き直すことも可能であるため、一般的な入れ墨では忌避されるような図案であっても大胆に描くことが可能であり、入れ墨を入れる前に図案が自分に合うかどうか事前に確認する用途にも用いることができる。

また、神社の祭礼時の出店などで良く売られている、模様の印刷された極薄のフィルムに超微粒子の顔料を使用した、プラモデルの耐水デカールの様に肌に転写する「タトゥーシール」もあり、ファッションの一部として用いられているが、こうした“消せるタトゥー(入れ墨)”の存在が「入れ墨は消せないが、タトゥーは消せる」といった誤った認識を一般人の間で蔓延させる要因ともなっている。

美容用途の入れ墨は人間以外に対しても行われており、色素が薄い白毛の犬などの鼻部に生じてしまう白斑を隠すために黒色の入れ墨を施し、ドッグショーでの評価を上げるケースなどが知られている。

医療的側面 [編集]

オートクレーブ等の殺菌方法によっては血液中のウイルスを死滅させることはできないため、施術用の針やインクの再利用はC型肝炎等のウイルス感染の原因となる。そのため、血液の付着する施術用の針やインクは使い捨てにする必要がある。

入れ墨を施した者に対してはMRI検査を行うことができない場合がある。これは欧米で普及している金属のラメ入りのメタリックカラーの入れ墨インクがMRIに反応し、火傷を負うことがあるためである。日本で現在用いられている入れ墨用インクには金属が含まれていないため、通常はMRI検査に支障をきたすことはない。ただし、日本の伝統的な入れ墨には発色を良くするために金属を含んだ色素が使われていることもあるため、MRI検査により火傷を負ったり入れ墨が変色したりすることがある。このようなトラブルを避けるため、病院はMRI検査の前に患者に入れ墨の有無を確認することがある。

美容外科では入れ墨の除去手術が行われている。その方法としては、皮膚の表面を削りガーゼで顔料を吸い取る、自家植皮をする、レーザーで色素を分解する、入れ墨が小さい場合には縫い合わせる、といったものがある。入れ墨の除去手術をしても手術痕は残る上、複数回の手術が必要となるため患者は苦痛に耐え続けなければならず、健康保険が適用されないため多額の費用も必要であり、入れ墨の除去手術には種々の困難を伴う。入れ墨を施す際には、除去手術がこのように極めて困難であることを十分に考慮する必要がある。

入れ墨の施術は医師が行うのでなければ保健衛生上の危害を生ずるおそれのある行為であり、入れ墨の施術には医師免許が必要である。具体的には、「針先に色素を付けながら、皮膚の表面に墨等の色素を入れる行為」を医師免許を有しない者が業として行えば医師法第17条に違反し(平成13年11月8日付け医政医発第105号厚生労働省医政局医事課長通知)、同法第31条第1項第1号により3年以下の懲役若しくは100万円以下の罰金に処せられ、又はこれを併科される場合がある。2010年7月には、医師免許を持たずに元暴力団組員らに対し強制的に入れ墨を施していたとして、兵庫県警が彫り師の暴力団組員を逮捕した。[9]

各国の入れ墨 [編集]

日本 [編集]

日本において入れ墨が施されて来た理由は、身体装飾・個体認識・社会的地位や身分の表示・宗教上の理由など多種多様であり、その歴史的経緯はいくつかの曲折を経たため、多様な呼称が存在する。

かつては入れ墨(江戸時代の刑罰に由来する)や彫り物が多く用いられた。近年では小説『刺青』、映画『TATTOO<刺青>あり』 [10] 、中森明菜の楽曲である『Tattoo』や、ロシアのアイドルユニットである『t.A.T.u.』といったポップカルチャーの影響から、刺青タトゥーと書かれることも多くなった。

ただし、メディアでの報道表記や各都道府県・自治体の青少年保護育成条例等では、現時点においても入れ墨が用いられていることがある[11] [12]

このほかにも、

  • 入れ墨剳青刺青(いれずみ/しせい)
  • 文身(ぶんしん)、紋身(もんしん)
  • 倶利迦羅紋々(くりからもんもん)[13]
  • (げい)、彫り物(ほりもの)
  • 紋々(もんもん)、タトゥー

など様々な表現で呼ばれており、入れ墨を施す行為も墨を入れる彫るなどと表現されるほか、苦痛と金銭的な負担をかけて『がまん』と呼ぶ場合もあるとされる。

また、日本の伝統的な入れ墨を和彫りと呼ぶのに対して、欧米における入れ墨の呼び名であるタトゥー(Tattoo)を洋彫りと呼び分けている場合もあるが、両者に本質的な違いはなく、図案や描画の技法に違いがあるのみである。

法律・社会的制限 [編集]

公衆浴場での告知例

入れ墨に対する法的規制は、敗戦後の1948年(昭和23年)の新軽犯罪法の公布とともに解かれたため、現在の日本では入れ墨そのものに対する規制は存在しない。かつては入れ墨を入れた者は全て暴力団構成員と認識され、公衆浴場(温泉大浴場サウナ銭湯スーパー銭湯健康ランドなど)や遊園地、プール、海水浴、ジム、ゴルフ場等への入場を断られることがあった。

これは入れ墨をそれとなくチラつかせることで威勢を示す手段として用いられていたためだが、近年では外国人観光客の多くがファッションとしての入れ墨を入れており、国内の若年層にもファッションとしての入れ墨が増加し始めているため、90%以上の温泉で「目立たなければOK」「サポーターや絆創膏、テーピング、タオルなどで隠せばOK」という柔軟な対応をはじめているのが実状である。[要出典]インターネットの掲示板などでは「入れ墨があっても入れる温泉情報」も公開され、愛好者の不便さも解消されつつ有ると言える。

入れ墨をした者の入場が禁止されている公衆浴場などに入れ墨をした者が入ると住居侵入罪の構成要件に該当し、入れ墨をした者が退場を求められても従わなかった場合は不退去罪の構成要件に該当する(刑法第130条)が、適用例は存在しない。

また、暴力団対策法では指定暴力団員が未成年者に入れ墨を施すことを強要する行為を禁止しているほか、各都道府県・自治体の青少年保護育成条例等によって、未成年者に入れ墨を施す行為が禁止されている地域があり、発覚した場合には彫師が処罰される[14]。2010年7月には医師法が適用されて逮捕された(非医師の暴力団員が入れ墨を施し報酬を受け取る。前述)。

司法当局は入れ墨の有無を当人の社会的スタンスを示す明確な指標として認識しており、逮捕された者は留置施設において入れ墨の有無確認とその写真を撮影される。

警察検察での取調べや公判に際しては、入れ墨の存在が担当官の心証に反社会的性向の象徴として捉えられるため、結果として量刑に影響を与えることが多かったが、近年のファッションタトゥーは反社会性よりも音楽やアニメ、ファッションなどのサブカルチャーを通じた”同趣向”を表現するためのものに変化してきており、大衆の実情と法曹界の対応に落差が生じ始めている。

入れ墨は江戸時代以降は刑罰の一種であり、現在でも暴力団関係者の象徴として用いられることがあるため、良い印象は持たれておらず周囲の人々から悪い噂を立てられることが多かったが、近年に入り、日本国外での「入れ墨のファッション化」についての情報が日本国内にも流入していることから、差別感情や偏見も徐々に解消されつつある。

入れ墨をしていれば就職採用に当たり身体検査のある大企業への就職や、客室乗務員公務員への就任は困難であり、女性の場合には結婚に際して、年配者からは過去の生活態度について疑念を持たれるる傾向があった。しかし一方で、「入れ墨のファッション化」や一時的に入れ墨を隠す特殊塗料の技術が向上している。

入れ墨が原因で勤務先からマイナス評価を与えられたり、懲戒解雇の対象とされたり、コンプライアンスの観点から雇用契約を破棄されたりと、社会生活上様々なリスクを負ったケースも報告されていたが、若年層の間に急激に拡大しつつある「入れ墨のファッション化」の流れによって、中小の企業では見過ごされることも多くなってきている。

NHK紅白歌合戦では、2002年に入れ墨を露出させて歌った者がいて、そのことに関する抗議が殺到したため、翌2003年以降入れ墨を露出させての出演が禁じられている。入れ墨のある出演者は、入れ墨が露出しない服装にするか、化粧などで入れ墨箇所を塗り隠さなくてはならない。

また、生命保険会社は暴力団関係者の加入を断っているため、申込者に入れ墨があることが明白な場合、その加入を断るケースがあった。しかし、ファッションとしての入れ墨が認識され始めたため、入れ墨の程度によっては保険契約を結ぶ生命保険会社が多くなっている。

日本の入れ墨の歴史 [編集]

上古まで [編集]

縄文弥生期の日本は、世界でも有数の入れ墨文化を有していたと考えられているが、集権国家が形成されはじめた古墳時代になると、人物を模った埴輪の表面は文様を持たない簡素なもの[15]となるため、これをして入れ墨の風習が廃れたと主張する意見がある。

また、古代の畿内地方には入れ墨の習俗が存在せず、入れ墨の習俗を有する地域の人々は外来の者として認識されていた、との主張も存在する。 これは、古事記 の神武天皇紀に記された、伊波礼彦尊(後の神武天皇)から伊須気余理比売への求婚使者としてやって来た大久米命の“黥利目・さけるとめ”(目の周囲に施された入れ墨)を見て、伊須気余理比売が驚いた際の記述 [16] を論拠とするものである。

これに対して、顔に入れ墨と思しき線が刻まれた人物埴輪が畿内地方からも出土[17]している例や、出土地域による図案の違いから類型化もなされている事実などが、反証として挙げられている。

現在までに発見された、人物埴輪の顔に施された入れ墨と思しき線は、

  • 鼻の上に翼型の入れ墨をしたA類(畿内を中心とする西日本)
  • 顔面に環状の入れ墨をしたB類(畿内を中心とする西日本)
  • A類とB類の合わさったC類(畿内のみ)
  • 頬に八の字の入れ墨をしたD類(関東地方)

に大別されている。

日本人考古学者の視点には、入れ墨が刑罰化されて以降強まった否定的な感覚や、後世に再構築された神道観が影響を与えているとの考察も存在する。こうした観点からは、入れ墨は穢れであり不浄なものと捉えられていたと主張されるが、入れ墨を奇異なものや刑罰として記した記録はいくつか存在するのに対して、穢れと記した記録が存在しない点や、後の仏僧(日本以外でも同様である)が入れ墨を不浄な存在とは捉えていない点から否定される観点である。

一方では、集権化の進行とともに社会構成が変化し、大部分の人口が権力者に所有される存在となったことで、個人の社会的身分を示す入れ墨が不要となり、入れ墨が権力者や呪術者、特殊な職能を持つ者(馬飼・鳥飼など動物の飼育を担当する者達)[18]など一部の人々の特権的なサインとなり、これを反映して入れ墨を施された埴輪が少数となった、との考察も存在する。

奈良時代–戦国時代 [編集]

古代の日本における入れ墨の習俗が廃れるのは、王仁および513年百済五経博士渡来による儒教の伝来以降と考えられ、以降の律令制の確立とともに入れ墨は刑罰としての入墨刑に変化した。

一方では、律令制の確立と密接な関係を持つ遣唐船の乗組員達に入れ墨の習俗があったとされ、後に発生した倭寇集団もまた入れ墨を入れており、海上交易や漁撈を生業とする人々の間では、呪術と個体識別の目的で広く入れ墨が施された。

この他、 蝦夷隼人といった人々や、儒教と対立した密教の僧侶によって、入れ墨の技術が継承された。山岳仏教出身者であり、書寫山圓教寺を開いた性空は、胸に阿弥陀仏の入れ墨を入れていた(「阿弥陀来迎図流転の謎」 2.天台本覚思想と来迎図)。日本においては耳なし芳一の説話が有名だが、経文を直接身体に書き込む行為は、仏法への帰依とその加護を得る目的で広く行われた。現代のタイカンボジアなど小乗仏教の盛んな地域では、経文を身体に入れ墨する習慣が一般的に見られる。

中世に入ると人々の日常生活を描いた絵画が残されるようになるが、これらの絵画に入れ墨をした人々が描かれている例は見られない。しかし、社会が安定期を迎えた江戸時代になって入れ墨が一挙に復活していることから、入れ墨の習俗が完全に消滅していたとは考え難い。中世の絵画は呪詛の手段として封印されていた人物画の萌芽期に当り、入れ墨の呪術性を恐れて絵画に描いてはいけないものと認識されていたタブーだったのか、実際に一般人の間で入れ墨が廃れていたのか、については今後の研究が待たれる。

また、戦国時代には死を覚悟した雑兵達が、自らの名や住所を指に入れ墨で記す個体識別目的の習俗があった。

江戸時代 [編集]

入れ墨を施した男性
フェリス・ベアト撮影 1870年頃

現代に続く日本の華美な入れ墨文化は、江戸時代中期に確立された。

江戸や大阪などの大都市に人口が集中し始め、犯罪者が多数発生するようになったため、犯罪の抑止を図る目的で町人に対する入墨刑が用いられ、容易には消えない入墨の特性が一般的に再認識されたことで、その身体装飾への応用が復活した。

遊郭などにおいては、遊女が馴染みとなった客への気持ちを表現する手段として、「○○命」といった入れ墨を施す「入黒子」と呼ばれた表現方法が流行した。入れ墨の他にも、放爪(爪を剥いで贈る)・誓詞・断髪・切指(指を切って贈る)・貫肉といった、遊女による独特の愛情表現が存在した。こうした文化の一部は現在まで引き継がれており、「○○命」といった入れ墨を施す行為は、レズビアン関係にある女子高生などの間で、昭和期に流行したことがあり、「○○命」のフレーズは男性の間でも広く使われる表現として定着している。

こうした風潮に伴って、古代から継承された漁民の入れ墨や、経文や仏像を身体に刻む僧侶の入れ墨といった、様々な入れ墨文化が都市で交わり、浮世絵などの技法を取り入れて洗練され、装飾としての入れ墨の技術が大きく発展した。

装飾用途の入れ墨は入墨刑とは明確に区別され、文身と呼ばれることが多く、江戸火消しや鳶などが独特の美学である『』を見せるために好んで施したほか、刑罰で入れ墨を施された前科者がより大きな入れ墨を施すことでこれを隠そうとする場合もあった。

参照:当時の浮世絵に描かれた入れ墨

背中の広い面積を一枚の絵に見立て、水滸伝や武者絵など浮世絵の人物のほか、竜虎や桜花などの図柄も好まれた。額と呼ばれる、筋肉の流れに従って、それぞれ別の部位にある絵を繋げる日本独自のアイデアなど、多種多様で色彩豊かな入れ墨の技法は、この時代に完成されている。

19世紀に入ると入れ墨の流行は極限に達し、博徒火消し飛脚など肌を露出する職業では、入れ墨をしていなければむしろ恥であると見なされるほどになった。

幕府はしばしば禁令を発し、厳重に取り締まったが、ほとんど効果は見られず、やがてその影響は武士階級にも波及して行き、旗本御家人の次男坊・三男坊や、浪人などの中にも、入れ墨を施す者が現れるようになり、図案にも「武家彫り」や「博徒彫り」といった出身身分の違いが投影された。

下総小見川の藩主内田正容などは、一万石の知行を持つれっきとした大名でありながら入れ墨を入れていたと言われる。ただし正容は幕府に不行跡を理由に隠居を命ぜられた。

時代劇で有名な江戸町奉行の遠山景元に入れ墨があったとの伝承が残されているが、これを裏付ける資料は発見されていない。

また、当時の武士階級の間では、入れ墨のある身体を斬ることに対して、その呪術性への恐れから生じた忌避感情が存在していたことも記録 [19] されており、市中では帯刀できない町人にとって、刃傷沙汰を避ける自衛策としての側面もあった。

明治以降 [編集]

明治維新以降、近代国家体制の構築に邁進した新政府は、1872年(明治5年)の太政官令によって入墨刑を廃止するとともに、同年11月に司法省が発令した違式註違条例を受けて旧幕臣出身である大久保一翁東京府知事が発した布告によって、装飾用途の入れ墨を入れる行為を禁止 [20] し、既に入れ墨を入れていた者に対しては警察から鑑札が発行された。

以降、1948年(昭和23年)まで日本における入れ墨は非合法の存在となり、入れ墨を施す行為は厳しく取り締まられ、当時の彫師達は取り締まりを恐れて住居を転々と移した。

しかし、日本の伝統的入れ墨の芸術性と高い技術は外国船の船員を通じて世界に広く知られ、1881年に英国のジョージ5世とアルバート皇子が来日した際に入れ墨を入れさせたと伝えられている [21]

また、1891年に皇太子時代のニコライ2世ジョージ5世の従兄弟にあたる)とギリシャのゲルギオス皇子が来日した際にも両腕に龍の入れ墨を入れたことが知られている [22]

明治初期における厳しい取締りの後、入れ墨はある程度黙認される存在へと変わり、小泉又次郎小泉純一郎の祖父)のように禁令後に入れ墨を入れながら政治家として活躍する人物も現れた。

普請現場で働く大工。威勢の良い男で、入れ墨をしている。
(『童謡妙々車』(刊行年:嘉永8年(1855年)~明治7年((1874年)より)[23]

また、入れ墨の持つ性的装飾としての側面や嗜虐性も、この時期から大衆文化のなかで再度クローズ・アップされはじめている。

こうした背景から、谷崎潤一郎の『刺青』発表の後、江戸川乱歩の「黒蜥蜴」のように現代まで継承されているキャラクターが出現したほか、横溝正史は多くの作品で入れ墨をモチーフとして、あるいは小道具として多用した。

現代 [編集]

現代の日本においては、日本の芸能人やアーティスト、ファッションモデルたちの中に入れ墨をしている人たちが増加している。その為、若年層を中心に「おしゃれ」を楽しむためのツールとして「ファッションタトゥー」「プチタトゥー」を入れる者が、女性を中心に少しずつ増加する傾向にある。また入れ墨を扱ったファッション雑誌も各種出版されている。

現代の日本においては、一部のアクセサリーや衣服などを販売する店においては、入れ墨をしている店員が客に入れ墨を隠すことなく仕事をすることも珍しくない。また、看護師などの制服の有る仕事に従事している場合も、仕事中には見えないよう工夫をおこなうことで、雇用主から干渉を受けることも無くなってきている。

しかし、かつては入れ墨をしている者が大手企業などで就職や就業することは非常に困難であるとされていたが、現在は入れ墨を一時的に見えなくする技術(特殊ペイントによるカバーリング)が発達していることから、身体検査の時などに一時的に入れ墨を隠してしまう事例も増えている。

入れ墨を除去することは入れ墨を彫ることよりも大変であり、さらには、完全に入れ墨を除去することは不可能であるため、かつては入れ墨をしている者は大手企業における業務や出世などに悪影響を及ぼすということを覚悟をしなければならなかったが、”ファッションタトゥー”の普及と共に、表現の自由に対する人権意識も高まり始めているため、そういった覚悟も過去のものになりつつある。 とはいえ、海水浴場で入れ墨をした者の入場を禁じる条例が物議を醸すなど公衆の場で受け入れられている、とは言い難い事例も存在する。

蝦夷・アイヌ・琉球 [編集]

沖縄県地域のハジチ

奄美群島のハジチ

日本領に編入されるまでの蝦夷アイヌ民族琉球王国の領域では、それぞれ独自の入れ墨文化が存在した。

日本書紀の記事中には、武内宿禰日高見國からの帰還報告として、蝦夷の男女が文身していたことが記されている(景行27年2月条)。 [24]

アイヌ民族の入れ墨は成人女性が手や口の周りに施すものが知られており、1871年(明治4年)以降禁止されたが、隠れて行なわれることも多かったとされ、文化的に重要な位置を占めていたとされる。 また、現代のアイヌ女性が重要な儀式に際して口の周りを黒く塗るのは、かつての習俗の名残とされる。

琉球王国では「ハジチ(刺突・パリツク)」と呼ばれた入れ墨文化があった。ハジチは女性のみが行い、本土にさらわれないための魔よけや後生(死後の世界)への手形とする民間信仰、成人儀礼としての意味があり、美しさの象徴ともされた。

笹森儀助宮古島では11, 13歳に施す成女儀礼であり、またそれがないと後生に行けないと著作に記しており、かなり強制力があったようである。沖縄本島では14歳くらいから施し始め、少しずつ文様を増やしていく。文様には地方によって微妙な違いがあり[25]、両手に23の文様を彫りこんで完成とし、その頃が結婚適齢期とされていた。文様のそれぞれには太陽や矢といったさまざまな意味がこめられていた。宮古島の場合は手背や前腕に彫り、文様が多彩で、人頭税下、貧困にあえいでいた島であるので、米のご飯をたべる女性に育って欲しいという文様(食器、箸など)もある[26]

琉球が沖縄県として日本へ編入された後も、しばらくこの旧習は維持されたが、1889年(明治22年)10月21日に沖縄県にもハジチ(入れ墨)禁止令が出されたため、ハジチの習俗は廃れた。しかし平成の初め頃までハジチを施した高齢者がみられたと伝えられている。

その他の国 [編集]

米国

新たな入れ墨をネット上で公開する米国女性[1]

米国では近年18〜29歳の青年層の間で入れ墨を入れる人々が急増し、同年齢層の36%が入れ墨を入れ、ボディピアスなどを含めると48%に上るとの報道[27]がなされている。
18〜50歳の人々全体で見れば、入れ墨を入れている人々の割合も、2003年の16%から、2006年の24%に上昇しているとされ、今後もこの割合は上昇するものと予想されている。
韓国
韓国では漢語由来の文身(문신:ムンシン)と呼ばれる。
儒教の影響が強い現代の韓国では、日韓併合以降に日本から流入した文化と言われているが、実際には李氏朝鮮初期に入れ墨の習俗があったことが記録されている。
李朝実録」中の世宗大王(1397-1450)時代の記録には、王世子(後の文宗)の側室と女官が対食(テシクあるいはパンドンム)と呼ばれる同性愛にふけったスキャンダルが記されており、宮中の女性同士が互いの愛情の証として「朋」という文字の入れ墨を尻に密かに入れるという風習があったことが記録されている。
近年の韓国では兵役逃れをするために入れ墨を入れるものもいて、摘発されている。
韓国においても、入れ墨の図案と技術に関しては日本の彫り師の評判が高く、日本から呼び寄せた彫り師を数週間滞在させて日本風の入れ墨を施してもらったり、色味を修正してもらう韓国のヤクザもあり、これも過去に摘発例がある。
台湾
台湾の黒社会は大陸起源の集団と台湾起源の集団が存在するが、どちらの集団も日本との深いつながりを有するため、その施す入れ墨も日本の影響を強く受けており、入れ墨とパンチパーマといった日本やくざのスタイルを模倣することが広く行われていた。
近年に入り、有名女優がテレビドラマにおいて自身の入れ墨を堂々と露出しはじめたため、日本よりも”入れ墨のファッション化”が広く進行していると言われている。中華圏では貴族階級が派手な入れ墨を入れる宮廷文化が存在していたことも有り、入れ墨が各界で活躍している台湾の山岳先住民族の固有文化でも有ることから、庶民の差別感情も低いと言われている。
香港
香港の黒社会は独自の発展を遂げたため、共産化以前の南部中国の習俗を色濃く残しており、入れ墨の図案にもその宗教観・世界観が強く投影されている。
入れ墨に関しても日本からの影響はほとんど無く、日本風の図案は外来勢力である台湾やくざのシンボルとして広く認識されている。
香港においては組織犯罪に対する取締りが厳しいため、図柄によっては黒社会メンバーと認定されて逮捕される場合もあるほか、入れ墨のある者は公務員に採用されないルールが英領時代から続いている。
しかし、一般人の間での入れ墨に対する心理的ハードルが非常に低いため、ワンポイントの入れ墨を入れている一般人も多く、街中に多くの彫師が店を出している。
中国
公的には入れ墨は禁止されており、入れ墨のある者は軍人を含む公務員に採用されない。しかし実際には多くの彫師が店を構えていて、ほとんど取締りを受けていない。
近年では欧米由来の図案のものが多く見られるほか、北京周辺や東北(旧満州)では、日本・韓国・台湾からの影響で日本風の入れ墨を入れる者も多い。
フィリピン
スペイン統治時代から秘密結社の文化が発達していた関係から、独特の図案の入れ墨を結社のメンバーの印として入れる習俗がある。
特に有名なのは、犯罪結社であるシゲシゲスプートニクの印として有名なUFOマークの入れ墨である。
タイ・ラオス・カンボジア・ビルマ
上座部仏教を基にした、「サクヤン」と呼ばれる独特の入れ墨文化が存在し、寺院にて僧侶の手により、経文や図柄を入れ墨する習俗がある。かかる費用はお布施として任意であるが、衛生状態は決して良いとは言えず、あくまで自己責任で行う。
軍人や警察官にも入れ墨を入れている者が多く、その内容は弾避けに効果があるとされる呪文や経文であることが多い[28]
その他
犯罪組織関係者の入国を禁じている諸国では、日本の暴力団関係者や他のアジア系犯罪組織の関係者が独特な図案の入れ墨を入れている点を利用して、入国審査の場で入れ墨の有無をチェックされ、入国拒否か賄賂を要求されることがある。